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街道を行く・第12回ふくしまけん街道交流会に参加

朝の5時前に出発、一路、浜街道を南下します…(経費節減で高速は中間から乗ろう(^^))
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井戸浜は中1の時に河口を見たくて自転車で往復50キロを走ったところ。
当時は今の産業道路はなくて紆余曲折して辿りついたな。
朝日を拝みますが、ちよっと遅かった。
ここは東日本大震災の津波ではうねりとなって陸地を遡上していった生々しい津波が放映されている。
岩沼から国道4号を南下して白石を過ぎて福島西から高速に上がり白河スマートインターで降りると1100円であった。
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そして、第12回ふくしまけん街道交流会に参加です。
会場の白河図書館は出来たばかりか真新しい。駐車場に入ると、お姫様が仕度中でした。
武者姿のうちのお一人は、我が町を知っており、友人がいるらしい。聞くと、おっ家内の知り合いの旦那であった。本当に世の中は狭い。よろしく(^ー゜)ノ
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それでは、『奥州街道in白河』を歩く旅 ~「国道294号」の歴史を紐解く~の、はじまりぃ~。(^o^)
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「戊辰戦争・白河口の戦い」をテーマですよ。
午前は講演会であるが、目をパチクリとして聞けました。
歴史好きな我である、徳に戊辰戦争には興味が沸く。
近世では国内最大の戦争、官軍、賊軍という分け方がされているがそうではない。東軍、西軍が正しい見方であって、何故か錦の御旗を手に入れた西軍が官軍となってしまった。「勝てば官軍」都合のいい、言い訳である。
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第1部の講演会は 『奥州街道と戊辰戦争 白河口の戦い』講 師 佐川庄司氏(白河市都市政策室長)
白河は白河の関が設置されたように古くから日本列島の要の地、奥州の関門として位置づけられ政治的、軍事的に重要な役割を担っていた。
東山道、奧大道の時代の遺跡が発掘されているが、今の町並みと街道は上杉時代の時かなって…?
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近世、白河の誕生は今から400年前で、370年前に白河藩が誕生、藩主は丹羽家16年、榊原家6年,本多家32年、松平(奥平家)11年、松平(結城家)49年、松平(久松家)82年、阿部家43年と親藩や譜代大名が多いのである。そう言えば、老中松平定信は教科書にも出てきましたよね。
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白河口の戦いでは、千人の戦死者が出てそうであります。
それにしても西軍68名、東軍723名の差が凄い。
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司会のお姫様(画像掲載の了解をいただきました)何姫様だったか、聞かないでしまいました。
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第2部は探訪会:図書館~境の明神~稲荷山~小峰城~女石~図書館(約11㎞(徒歩区間約4㎞)) ※バス移動、途中昼食(昼食は各自持参)

国境に到着。
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「境の明神」文禄4年(1595年)会津藩主の蒲生氏が社殿を造営したといわれる。現存するのは弘化元年(1844年)に建てられた小祠で、大名、商人、旅人が道中の安全を祈願したそうである。
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東軍陣地の稲荷山、西軍の大砲は4㎞は届いたそうで、300年前の武装での東軍は人数が勝っていても戦力は歴然の差であった。
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このお寺、龍與寺は禅宗のなかの黄檗宗(おうばくしゅう)である。
禅宗と言えば臨済宗と曹洞宗だけだと思ってましたがもう一つあったのですね。
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お寺の講堂を借りて楽しい昼食は、今回もコンビニのノリ弁当。(^^)ウマイ
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その後、妙徳寺、関川寺、白河ハリスト正教会を歩いて
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白河戊辰見聞館で、戊辰戦争戦死者名簿(500円)なんていうものを求めました。
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小峰城は遠望だけ。
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脇本陣柳屋(新撰組の待機所と明治天皇の御宿泊所)
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長寿院の石碑には「国報…   」
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「自ら体を捨てて国のためにつくす…」でも、血を流し命を捧げることはむごいことです。

それにしても、横浜市緑区のJR横浜線で1日昼前に起きた踏切事故、男性(74)を助けようとして列車にはねられ、亡くなった女性、同区台村町の村田奈津恵さん(40)、これからも沢山の楽しい人生があったのに残念な出来事です。合掌
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鎮護神山(薩摩藩墓所)を見て
遊女志げ女の碑は、東軍では憎き世良修造の関連碑。(>_<)
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仙台藩墓所にて。
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細谷十太夫を知ってますか。博徒仲間などを集めて官軍に夜襲をかけて負け戦のなかで官軍を震え上がらせたのですよ。(詳しくは早乙女貢書の烏組)戊辰戦争後は品井沼干拓で土工、その後は軍人となったそうですね。
東北大近くのお寺?に墓がありますよ。
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市立図書館に戻りました。
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〆は、もちろん白河ラーメンです。
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地元の参加者から聞いて茶釜食堂へ自家製麺、おいしくいただきましたよ。。
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所感
「白河口の戦い」は戊辰戦争の雌雄を決する戦いとなりました。
会津、二本松、越後の壮烈な戦いは知っていましたが、白河口は戊辰戦争の三分の一の戦死者があったのです。不本意ながら賊軍とされた東北諸藩、奥羽列藩同盟の成立と破綻、無条件降伏。
140年前の歴史を垣間見ながら「白河日帰りの旅」、講演と歴史遺産の探訪会は大変に意義のある街道交流会でした
東北と関東の国境の”境の明神”も訪れましたが、もう少し先には日本三古碑(多賀城の碑、群馬お多古の碑)のうちの「那須の国に造碑」も見てみたい気持ちが出ましたが次回に預けましょうか。
東北人として感無量で帰路につきました。
関係者の皆様、有り難うございました。次の企画待ってますよ。(^o^)



【参考】白河城攻防(白河口の戦い)西郷頼母と伊地知正治(いじちまさはる)
福島県の南部に位置する白河は昔から奥羽の玄関口とされてきました。江戸時代は徳川家の親藩、譜代である、松平家、本多家、阿部家などが治めていましたが、戊辰戦争時は天領となり二本松藩の預かり地でした。

そのため、白河城は城主のいない空き城となっていたのです。白河は奥羽越列藩同盟にとっても、新政府にとっても戦略上重要な地であり、この白河をどちらが制圧するかで戦いの大勢が決まるといっても過言ではなかったのです。

会津藩は奥羽同盟が締結されると藩兵を白河城に入城させます。さらに、家老西郷頼母を白河口総督、若年寄横山主税(よこやまちから)を副総督に任命して1000人を越える藩士を白河口の守りにあたらせます。

さらに、仙台藩からも坂英力率いる軍勢が応援に駆けつけ、棚倉藩、二本松藩、新撰組や幕軍の一部も参加し総勢2500の兵力でこの白河を死守すべく陣をはります。

一方、新政府軍は薩摩の伊地知正治(いじちまさはる)率いる兵およそ700が白河攻撃の任にあたります。伊地知正治は幼い頃の大病により手と足が不自由になりますが、ハンディキャップにもめげず剣術と兵学を極めた努力の人です。

薩摩藩の藩校である造士館の教授を務めたこともあり、西郷隆盛、大久保利通、吉井幸輔らと同じグループ(のちに精忠組と呼ばれる)に属し、薩摩藩の藩政や軍制に関与します。

その功績により軍奉行に任命され、戊辰戦争では土佐の板垣退助(乾退助)とともに東山道(中山道)鎮撫総督府参謀となります。戊辰戦争において薩摩藩の軍略をたてたのは伊地知正治であり、少数精鋭の兵と最新の銃器で相手を撃破する戦法を得意としていました。

白河口においてはわずか700人で列藩同盟軍2500人と相対します。兵力で劣る伊地知は敵の陣容をつぶさに観察し兵を3隊に分けます。列藩同盟軍の本隊が陣どる稲荷山を総攻撃するとみせかけ、迂回した左右の隊が雷神山と立石山を防衛している同盟軍に奇襲をかけ撃破します。

稲荷山の列藩同盟軍本隊を囲むかたちとなった新政府軍は、最新の銃器で同盟軍に銃弾の雨をあびせ、これを壊滅させ城下に攻込み白河城を占領するのです。この日の戦いにおける戦死者は、列藩同盟軍700人以上、新政府軍10ー20人といわれています。

会津藩では若年寄の横山主税が討死、仙台藩の参謀坂本大炊も銃弾を受け死亡するなど新政府軍の歴史的な圧勝に終わったのです!列藩同盟軍はなぜこれほどの大敗をしたのでしょうか?

兵力で圧倒しながら惨敗した鳥羽・伏見の戦い同様、列藩同盟軍には戦略というものがありませんでした。列藩同盟軍は寄せ集めの軍であり、統一した戦術、命令系統というものがなかったのです。

主力となった会津藩の総督は実戦経験のない西郷頼母でした。容保の京都守護職就任に反対を唱え謹慎処分を受けていたため、京都での滞在経験がなく、禁門の変や鳥羽・伏見の戦いにも参加していなかったのです。さらに、仙台藩に至っては坂英力はじめほとんどの藩士が戦争経験がなかったのです。

新政府の圧倒的な銃器の性能について情報は得ていたと思われますが、知識として知っているのと体験しているのではまったく違います。相手が少数だったこともあり油断をしていたのでしょう。戦力の分析や陣容など情報収集の面でもはるかに劣っていたのです。

実戦経験豊富な新撰組隊士が、白河城にいる兵の一部を手薄になっている陣に向かわせるべきと主張したのですが、同盟軍は兵力で勝っているのだからそのような必要はない!としてこれを退けてしまうのです。

容保が戦争の勝敗を分ける重要な白河口の責任者になぜ西郷頼母を任命したのか?頼母の諫言を聞かず京都守護職を受け、朝敵となってしまったことへのうしろめたさなのか?人材が不足していたのか?後年容保は会津戦争について多くを語ろうとしなかったので真相はわかりません。

白河を制圧された列藩同盟軍は、以後兵力の増員を行いながら7回にわたり白河を攻めます。上野戦争、今市の戦いで勝利し、戦力に余裕のでてきた新政府軍も兵力を大幅に増員したため、白河を陥落させることができず7月14日を最後に白河から撤退します。

7月14日の白河撤退、7月29日の長岡城陥落によって戊辰戦争の大勢は決します。新政府は本丸である会津を攻めるべく会津包囲網を徐々に狭めていくのです。

稲荷山は、奥州街道から白河白下に入る関門にあたり、白河口の戦いにおいて東軍がもっ¬とも重要視した陣地である。会津藩を主力とする東軍が守備していたが、薩摩藩などの西¬軍に立石山方面と桜町方面が破られると一気に劣勢となり陥落した。稲荷山に応援に向っ¬た白河口の副総監・横山主税は稲荷山の裏で戦死している。
現在稲荷山頂上付近は公園となり、西郷頼母の碑、麓には会津藩戦死者の慰霊碑、その向¬かいには長州藩と大垣藩の戦死者の墓がある。
白河口の戦いでは両軍とも集落を放火したり、人馬を強制徴発したりしました。しかし白¬河の人々は敵味方分けへだてなく戦死者を弔い、多くの碑を建ててます。
(白河観光協会編集/戊辰東北戦争研究会発行「幕末の白河を歩く 戊辰白河口の戦い 史跡マップ」より抜粋)
by maro4070 | 2013-10-02 09:21 | 歴史・街道を行く


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by maro4070

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